2016年09月12日

彼岸花

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彼岸花、別名曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも言われます。いま佐伯ではあちこちの道端や野山に花が咲き始めました。ヒガンバナは日が立つと花びらの先が白くなりますので撮影には良い時期です。
Hirokane
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2016年09月08日

ハンバーグセット・清流厨房せせらぎぶんこう

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「清流厨房・せせらぎぶんこう」さんのハンバーグセットです。せせらぎの音を聞きながら思いのこもったハンバーグを味わう、ゆっくりと至福の時が流れます。
場所は羅漢峡の直線道路、吉和に向かって左側です。
Hirokane
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2016年09月06日

羅漢峡の紅葉・秋風景

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佐伯エリアの自慢の風景、その一つが羅漢峡の紅葉です。羅漢峡の紅葉は赤く色づく木々、黄色に輝く葉、いつも緑の常緑樹とが入り混じり、錦織為す風景が楽しめます。
紅葉は一般的には10月20日過ぎから始まり、10月末〜11月初めに見頃を迎えます。
(年により変化も)
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「佐伯エリアの秋」
佐伯の秋は美味しい食べ物と野山を彩る景色、彼岸花にハギの花、ススキの穂が風にゆれ道端のコスモスが皆さまをお迎えいたします。

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Hirokane


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2016年09月05日

重なり岩・岩倉

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帯掛明神と重なり岩
出雲の国から乳飲み子を背負って、厳島まで旅をして永住された市岐島姫命が、この場所で休憩されたとき、背負っていた帯を掛けられたと言われ「帯掛け明神」として祀られています。
そんな伝説のある重なり岩ですが、最近では落ちない不思議な岩としてナニコレ百景でも紹介されました。

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左の写真は向かって右側面、右の写真は左側面ですが広角レンズで写しています。この落ちそうで落ちない岩は「パワースポット」としての人気も高まり、受験生の方などお参りされているようです。


津和野街道と重なり岩
遊石稿(ゆうせきこう)は、江戸時代に頼杏坪が竹原から津和野、益田への旅を書いた著書です。その書によれば、
「路上には巨石が二つ崩れるようによりかかっている」
「石の下には小店があるが寄らずに行く」と書かれています。
このことから、
当時の街道(津和野街道)はこの岩の場所か少し下、現在の路より上を通過していたと考えられます。近くの人にお店の話しを聞くと「前の畑くらいにあったのでは」と言われていました。


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階段の横には絵馬がたくさんかかっています。
遊石稿 頼杏坪(らいきょうへい)
竹原生まれの広島藩士、あの芸藩通誌をまとめられた頼春水の弟で三次の代官も務められています。
(頼山陽の叔父)
Hirokane




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2016年09月03日

参勤交代・津和野藩

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津和野街道は、江戸時代の津和野藩の参勤交代に利用され整備された脇街道です。ここに書きますのは、資料等で調べたものではなく、地区の古老やガイドさんなどから聞き集めたものですので、正式な津和野街道のsiteには書かれていません。
津和野藩は小藩ですが、津和野和紙の販売などで裕福な藩だったと言われます。
とは言え、
大変な経費が必要な参勤交代、その津和野藩が節約できるのは津和野〜兵庫県までです。上の写真は津和野城跡、津和野藩は二班に分かれて出発し、お殿様は津和野街道を少人数の行列で、お伴のものたちはそれぞれ廿日市までを一泊二日で歩かれていたと聞きます。

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ここは岩国市錦町大原、正式な宿駅で駅馬も配置されており本陣もありました。が、ここの本陣は「御殿屋敷」と呼ばれていたようで、多分津和野藩直轄の本陣だと思えます。
大庄屋であった讃井家はありますが、本陣は残っていません。



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「かご立場」
現在この岩はかご立岩と呼ばれ、横山の中腹(標高700m)の松ヶ峠(まつがたお)、ここでお殿様が景色を楽しまれたと言われます。しかし、地元の古老のお話では「かご立場」と言って、地元の人(栗栖)がここまでお殿様をお迎えに行き、ここから臨時の行列で廿日市まで行っていたと聞きました。
ですから、栗栖の家には、自分の家は「槍もち」だったとか、「駕籠かき」だったとかそれぞれの家に役割があったようです。収入の少ない当時の農家としては良い日当収入になっていたと思います。



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山道の多くはこうした石畳であったようですが、現在では殆ど剥がされて少ししか残っていません。これは廿日市市(旧佐伯町)栗栖の山に残る当時のままの石畳の道です。
こうして、地元の人たちとの仮の行列で廿日市市までを歩き、廿日市市にある御船屋敷から船で兵庫県まで、瀬戸内海は船旅だったと伝えられています。



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写真は兵庫県竜野市の室津、天然の良港で西日本、九州の大名の殆どはここから本体を整えて姫路城下を江戸へ向かわれていたようです。
津和野藩もここを利用されていたのではないでしょうか、室津には当時は本陣が六つあったと言われます。その後津和野藩の行列も姫路城下から江戸へ向かいますが、小藩であっても二本槍で組まれ見事だったと聞きました。
追伸、
旧佐伯町と美和町(山口県)の境に亀尾川という集落があります。ここは毛利藩のワラジの係を務め、参勤交代のときには数人が身体いっぱいにワラジをつけて、水杯(みずさかずき)をして出発していたと聞きました。古老よりこのお話を聞いたとき、おもわずミノムシを想像してしまいましたが、これも小さな集落では良い稼ぎになっていたように思います。
Hirokane

posted by WITZpuresentation at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 津和野街道